先日のミサの後、ミサで読まれた聖書の箇所について「分かちあい」をした。
該当箇所は、「ぶどう園の労働者のたとえ」。
それぞれが気になった言葉を挙げて、なぜその言葉が気になったのかを話していく。
私は「12時ごろと3時ごろ」という言葉を選んだ。
そのとき私が話したことをまとめると、こんな感じになる。
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このたとえにはいろいろな人物が登場するけれど、私自身は誰に近いか考えてみると、「12時ごろと3時ごろ」の労働者なのではないかと思う。
そもそも、このたとえで語られる時間は、ひとが自分の仕事を見つけたり与えられたりする人生の時期を表しているように思える。
夜明けに主人と共に働き始める人は、たとえば伝統芸能に従事する家に生まれ、幼い頃から仕事が決められているようなケースが思い浮かぶ。
9時ごろに働き始めた人は、学生時代にスポーツで才能を発揮しプロ選手になるタイプの、若くしてその能力を見出された人だろう。
私自身は公務員の家庭で生まれ育ち、成長過程で何かの才能が発揮されたわけでもない。
そして今、ユングのいう人生の正午、すなわち中年期のど真ん中、というかそれをちょっと過ぎたあたりにいて、天職と言えるような仕事もない。
だから私は、「12時ごろと3時ごろ」に仕事を始めた労働者にいちばん共感する。
労働時間が短いからうらやましい、などと思っているわけでは決してない。
それどころか私自身の経験から言えば、つらい仕事をするより、仕事をしたくてもできないほうがつらい。
全員に同じ賃金を払う主人の「気前のよさ」は、もちろん私にとって希望でもある。
そして願わくば、遠くない将来に「主人」に見出されて、私も仕事ができればと思う。
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労働者が働き始める時間を人生の時期と解釈するのは、その場の思いつきだった。
とはいえ、少し調べれば同じ読み方をしているひとが、きっと何人も見つかるだろう。
もし私がこのテーマについて論文を書くなら、そういう人たちを一通り調べて、さらに別の見解も集めようと思うだろうし、正確な引用や深い考察を目指したりするのかもしれない。
でも、いまの私には、そういうことは(いい意味で)どうでもいい。
その種の論じ方を否定するわけではなく、かといって、私自身の読み方を卑下するわけでもない。
学問を仕事にしなくちゃ、と思っていた頃にはできなかったような仕方で、私はいま自分の考えを話している。
そんな自分がすこし新鮮で、おもしろく観察している。
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| 大きめ生協にて。この「トヨヒコ」は賀川さんちの豊彦さんらしいです |
昼さがり道庁池のベンチにて目薬を注す失業十日目
















