小説とはちがって、とてもわかりやすく親しみやすいこの本を読んでいると、ともだちの話に耳を傾けているような気持ちになる。かのじょとの会話の内容を反芻し、反芻しているうちに自分の世界が、世界の見え方が少しずつ変わっていく。
「何をするにもわたしは言語を羅針盤にして進む方向を決める」(5頁)というかのじょが進む方向は、ときに微笑ましいほど迷信じみている。
冒頭にある元旦の日記では、スイスでの年越しの様子が描かれる。スイスでもドイツ語が話されるが、スイス・ドイツ語はドイツのドイツ語とは違う。ドイツの中での方言が関西弁みたいなものだとすると、スイス・ドイツ語は津軽弁みたいなもので、ドイツで暮らして20年以上になるかのじょにも、「半分しか分からない」という。でも、そんなかのじょにとって「心配だったのはスイス・ドイツ語ではなく、橇だった」(2頁)。
東京で生まれ育ったかのじょは、ほとんど橇に乗ったことがなく、山道を橇で滑り降りるのがこわい。しかしそのこわさが橇すべりの経験の有無とは別の部分に(も)根ざしていることに、かのじょはふと気づく。
そうだ、わたしは日本語の感覚で「すべる」のが嫌なのだ。日本の受験戦争を生き抜いてきた人間にとって、「すべる」ほど嫌なことはない。(3頁)
あるいはフロリダで牡蠣のサンドイッチを食べた、というかのじょは、続けてさらりとこう言う。
「牡蠣」は「書き」と音が同じで作家にとっては縁起がいい食べ物なので、機会があれば食べることにしている。(123-124頁)
かのじょは、たぶん英語やドイツ語を使ったことがある日本人ならだれでも一度は考えるであろうような、主語をめぐるあれこれにも思いをめぐらせる。日本語なら「わたし」「あたし」「僕」「俺」といったさまざまな「私」がありうるのに、英語でもドイツ語でも「わたし」を指す言葉は一種類しかない。
でも、かのじょのこんな言葉をきくと、やっぱり言葉を職業とするひとなのだと感心してしまう。
「あたし」とか「俺」などの社会のしがらみの中で体臭を放つ日本語と比べて、ドイツ語の「ich」が無色透明なので、初めの頃は本当に三人称で自分のことをしゃべっているような感じがしてしまった。(138頁)
あるいはこんな言葉。
通常使われないような表現、例えば「青い手触り」という表現に出会うと、通常表現では活動しない左脳の前頭葉が活動すると言う。わたしは昔から「青い手触り」のような表現に出会うと大きな喜びを感じる。この喜びはわたしにとってはどんな物とも交換したくない激しい身体的な喜びであると言っても大げさではない。だから文学を選んだのかもしれない。(187頁)
おもしろいと思ったのは、瞑想についてかのじょがぐるぐると考えていくところ。
友だちの家にお茶に呼ばれたかのじょは、同席した哲学者夫婦と瞑想の話で盛り上がり、赤ワインを「飲めないのに飲んでしまった」(59頁)翌日も、さらに考え続ける。
「頭に次々と雑念が浮かんでくる自分というものを突き放して見て、その雑念をさっと水に流して」とか「息を吸いながら座骨を床にさしこんで、背筋を伸ばして、息を吐きながら身体の無駄な力を全部いっしょに吐き出して」などの文章に導かれて瞑想状態に入っていくとする。その状態には言語なしでは入れないわけだから、瞑想は言語のない世界ではなくて、無駄な言語を別の言語で追い払う作業、つまり文学と似ているのではないか。無駄な言語というと誤解を招くかもしれない。瘡蓋のような文章と言ってもいい。たとえば「自分はなんて駄目な人間なんだろう」という紋切り型に頭を支配されて現実が見えなくなってしまっている人がいる。これはいつか傷つき、もう血は流れていないのだが、瘡蓋をはがすとまた血が流れるので、いつまでも死んだ肌に過ぎない瘡蓋文にしがみついている。(60頁)
そして、かのじょのこんな言葉に、私は深く頷くのだ。
文章を物質として見る。単語一つ一つを物として観察する。単語は自分の心が外に溢れ出したものだと考えるのは思い込みで、単語はわたしの生まれる前から存在し、独自の歴史を持ち、わたしが死んでも全く悲しまずに、存在し続けるだろう。(61頁)
そういえば、この本にはたくさんの「死」が描かれている。日記が記された四か月半の日々に、かのじょは死を前にした人を見舞い、死の報せを受け取り、折にふれて死者を思い出す。この本の中でいちばん私の印象に残った言葉もまた、ある死者によって語られている。
国際交流基金の理事が来独中とのことで、ベルリンの日本大使館が大使公邸で夕食会を催し、招待してくれた。その席で、ベルリーナー・フェストシュピーレの新しい芸術監督のトーマス・オーバーレンダーさんに初めて遭い、いろいろな話をしているうちに、ふいに、「坂口恭平さんの作品、知ってますか」と訊かれ、とても驚いた。去年の暮、新宿の紀伊国屋で偶然見かけて面白そうなので買っておいた『独立国家のつくりかた』という本を昨夜ちょうど読んだところだった。その本は別の日に読んでもよかったのに、それが昨日なのだった。こういう出会いは偶然ではないのだ、と数年前エイズで命を失った知人が言っていた。我々の頭上で思考たちが勝手に交流しているのだ、と。(20頁)
日々のくらしの中でしばしば心をよぎる「偶然ではない」という思いに言葉が、しかも具体的なイメージとして、与えられているのがおもしろくて、この本を読み終えてからずっと、私の頭のうえには交流する思考たちが浮かんでいるような気がしている。