冬眠モードですごしていたら、3月が目の前。
3月までの副業でiPadが与えられ、指でシュッとするのをおぼえた。
翻訳の副業は、なかなかいいペースで続いている。
4月からの非常勤の副業も、ぼちぼち準備を始めている。
かんじんの本業は牛の歩みだけど、でもいろいろ蓄えて、春を迎えたい。
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年末年始にサマセット・モームの小説を何冊か読んだ。
その後に読むことにしたのは、クリスマスプレゼントにもらった、Marlen Haushoferの「Die Wand(壁)」という小説。
(日本語訳はこちら)
主人公は夫を亡くした中年女性、彼女の手記という形式で物語は進む。
彼女はいとこ夫婦に招待され、三人と猟犬1匹で山小屋にやって来る。
その日いとこ夫婦は村にでかけ、彼女は山小屋に残る。
夫婦の帰りを待たずに眠った彼女は、翌朝、まだ二人が戻っていないのに気づく。
猟犬とともに村へ向かった彼女は、その途中で目には見えない何か、つるつるした透明な冷たい何かが、山小屋から村に続く道をさえぎり、村のある向こう側と山小屋のあるこちら側を隔てていることを発見する。
彼女は「壁」と名付けたその何かの向こう側に、人間や動物が死んでいるのを見る。
彼女はひとり、「壁」のこちら側に取り残されたことを知る。
人間と動物だけを全滅させる新型の兵器が使われたのかもしれない、そして、しばらくしたら、その兵器を開発した「敵」が占領しに来るのかもしれない、と彼女は考える。
しかし「敵」も「味方」もやって来ない。
そして、彼女はそれ以上「壁」について思いをめぐらせることはない。
「壁」は、すでに所与のもの、手の施しようがない、変えられない条件としてそこにある。
自殺するには年をとりすぎている、という彼女にとって、「壁」を受け入れて生きる以外の選択肢はない。
やがて「壁」は、彼女のいる世界の背後に溶けていく。
そうこれは「壁」をめぐる物語ではなくて、そのずっと手前に広がる山の自然、農作業と動物の世話に明け暮れる生活、不意におとずれる恐れと苦痛、そして動物たちへの愛着、それらを通して形作られていく彼女という人間についての物語なのだ。
彼女は山小屋の蓄えを確かめ、それらを節約しつつ活用しなければならない。
森で見つけた乳牛の居場所をつくり、乳をしぼって牧草を確保しなければならない。
山小屋で見つけたリンゴと豆は、食料にしつつ、畑に植えて育てなければならない。
犬のために狩猟をして、肉を確保しなければならない。
彼女が想いを寄せるのは、いなくなった人間たちではなく、目の前にいる動物たちだ。
一緒に暮らす動物たちと彼女は、しだいに近づき理解しあえるようになる。
すくなくとも彼女の側からは、そう思える。
とはいえ、動物たちが人間になるわけではない。
かといって彼女が人間でなくなるわけでもない。
彼女と動物たちに共通のチャンネルが開いていくような。
そしてクライマックスがやってくる。
私は、本を閉じてしばらく呆然としてしまった。
もしかしてこの物語は「人間」というよりも「女」を描くための物語だったのかもしれない、とぼんやり思う。
彼女は、目の前にある現実をそのまま受け入れ、具体的で実際的な努力を惜しまず、共に生きる存在のために尽くす。
そのために必ずしも「人間の男」は必要ないのだ、という強烈なメッセージ。
そのメッセージに対して反論するよりも前に、なんだか呆然としてしまったのだった。
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「男」「女」という切り口は、私的で切実なものごとを考える時にはあまり実りがない。
と、個人的には思っている。
生物としての特徴はもちろんそれとしてあるけれど、それ以上の部分は、なんというか「日本人」とか「ドイツ人」とかいうくくりと同じくらいかそれよりもっとおおざっぱで、実際の生活にはそれほど役に立たないんじゃないかと思うのだ。
ジョークとか話のネタとしては、もちろん面白いのだけれども。