引っ越して、半年が過ぎた。
もう、のようでもあり、まだ、のようでもある。
ここでの暮らしにもすっかり慣れて、
不平不満はいろいろと、やまほどもあるけれど、
長居できるカフェや、歩いてすぐのおいしいパン屋さんを見つけたり、
お気に入りスーパー系列の新しい店舗ができたので、通っていたら、
「ロイヤルカスタマー」としてエコバッグをもらったりして、
こまごまと楽しいこともある。
最近は、ちょうどいいお出かけ先も見つけた。
電車で一本、乗り換えなしでいける桜木町の駅、
そこから横浜・みなとみらいのあたりをうろうろするのだ。
横浜の街は、つくりが大きくて、観光客が多いところとか、
歩いていると気分が上がってくる感じが、ちょっと札幌に似ている。
あと、一度だけ行ったことがあるトロントにも。
つまり、わたしが住みたいなと思える街、ということだ。
いまのところ、いちばんのお気に入りは大さん橋。
正式名称は「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」。
さん橋の上はウッドデッキ、内部の施設にも木がふんだんに使われている。
上の部分は「くじらのせなか」、内部は「くじらのおなか」という愛称があるらしい。
天気のいい午後に「せなか」をちょっとお散歩して、対岸のビルや観覧車を眺め、
そのあと「おなか」でうろうろしているうちに、夜景がはじまる。
よく晴れた土曜日、はじめての結婚記念日の記念でみなとみらいへ行った。
オクトーバーフェストを横目に見つつ、中華街をかすめて、
くじらのせなかとおなかを歩き回った。
日々の不平不満も、潮風に吹かれ、泡になってはじけるような一日だった。
毎日を旅するふたりつなぐ手にみなとみらいの桟橋の風
2014/10/31
2014/05/09
異邦人の目
この街に引っ越してきて、気づいたことがいくつかある。
自転車のカギを2個つけているのを、あまり見ない(札幌では、そうしないと盗まれる)。昼間でも雨戸を閉めている家が、やたらと多い(札幌では、雨戸を閉める家は珍しい、と思う)。桜が、いがいと長く咲く(札幌では、最初から葉桜になっている)。桜のあとに、いろいろな花が咲く(そのかわり、ライラックを見ない)。
碁盤の目になっていない街は、ひとつ違う通りに入ると、めざす場所からどんどん離れてしまう気がして、引っ越してからしばらくは、いつどこを歩いていても、なんとなく緊張していた。グーグルマップでよく確認して、念のために地図も持って自転車に乗ると、目に入る風景を全部処理しようとして、頭がヒートアップする。そんなとき、ふと目線が静かな団地の合間や、誰もいない小さな公園に吸いこまれて、ああ、この感じ、まるで外国にいるようだ。
一週間の予定が決まり、電車の乗り換えルートが決まり、いつも行くスーパーが決まり、休みの日に出かける公園が決まって、気がつくと、外で緊張しなくなっている。ようやく「異国」暮らしにも慣れたのだろう。
と、思っていたのだけれど、この前の日曜日、公園からミスドに行った帰りに、ひとりで買い物をした後で、道に迷ってしまった。辺りはどんどん暗くなり、見たことがあるような無いような通りでは、コンビニもファミレスもあてにならない。自転車をてきとうに走らせれば、半月手前の月は、見上げるたびに場所を変える。軽く途方にくれる。
一度行ったことのある税務署の行先表示を見つけて、思いがけない方向から見覚えのある通りに出たところで、ホッとするのと同時に、両手がつめたくなっているのに気づく。空腹と寒さのせいだけではない。
やっぱり、まだ私は「異国」にいるのだ。
自転車のカギを2個つけているのを、あまり見ない(札幌では、そうしないと盗まれる)。昼間でも雨戸を閉めている家が、やたらと多い(札幌では、雨戸を閉める家は珍しい、と思う)。桜が、いがいと長く咲く(札幌では、最初から葉桜になっている)。桜のあとに、いろいろな花が咲く(そのかわり、ライラックを見ない)。
碁盤の目になっていない街は、ひとつ違う通りに入ると、めざす場所からどんどん離れてしまう気がして、引っ越してからしばらくは、いつどこを歩いていても、なんとなく緊張していた。グーグルマップでよく確認して、念のために地図も持って自転車に乗ると、目に入る風景を全部処理しようとして、頭がヒートアップする。そんなとき、ふと目線が静かな団地の合間や、誰もいない小さな公園に吸いこまれて、ああ、この感じ、まるで外国にいるようだ。
一週間の予定が決まり、電車の乗り換えルートが決まり、いつも行くスーパーが決まり、休みの日に出かける公園が決まって、気がつくと、外で緊張しなくなっている。ようやく「異国」暮らしにも慣れたのだろう。
と、思っていたのだけれど、この前の日曜日、公園からミスドに行った帰りに、ひとりで買い物をした後で、道に迷ってしまった。辺りはどんどん暗くなり、見たことがあるような無いような通りでは、コンビニもファミレスもあてにならない。自転車をてきとうに走らせれば、半月手前の月は、見上げるたびに場所を変える。軽く途方にくれる。
一度行ったことのある税務署の行先表示を見つけて、思いがけない方向から見覚えのある通りに出たところで、ホッとするのと同時に、両手がつめたくなっているのに気づく。空腹と寒さのせいだけではない。
やっぱり、まだ私は「異国」にいるのだ。
2014/04/23
Neues Leben / new life
新生活、という日本語をドイツ語で言えば“neues Leben”になり、英語なら“new life”になる。でも“Leben / life”には「生活」だけではなくて「人生」という意味もあるのだから、「新生活」は「新しい人生」でもある。
3月の終わりに、札幌から神奈川県に引っ越した。
大学入学を機に盛岡を離れてからというもの、わたしの生活の拠点は常に札幌にあり、就職や留学で違う街に住んでいた間にも、物理的・精神的なよりどころがあったのは、いつも札幌だった。
引っ越しまでのあれこれの片付けをしながら、札幌から離れることを自分がどんなふうに感じているのか、自分の気持ちのかたちを手探りしてみたりもしたけれど、そのたびすぐに手を引いてしまった。今はまだその時ではない、かたちにならないうごめくものに、まだ触れるべきではない。
その代わり、というわけではないけれど、わたしは「neues Leben」という言葉をときどきつぶやいていた。新しい生活、新しい人生。それはわたしにとって、不安よりはやや期待に近く、感傷や感慨よりもずっと実務的な響きを持つ言葉。
不要なものを処分し、引っ越しの荷物をまとめ、部屋を決め、いくつかの手続きをすませて、必要なものを買いそろえる、という引っ越しのプロセスを終え、日々のルーティンが更新される。「新生活」は、かぎ括弧のいらない、普通な毎日の生活になる。
「生活」とちがって、「人生」の変化や転機について、自分でその瞬間にそれと認めることは難しい。あれが転機だった、と後から振り返って言うことはあっても、今ここがその瞬間だ、とはっきり宣言することはあまりないし、宣言できたとしても、後からやっぱり何も変わっていなかった、と思うことも多い。
引っ越しの荷造りをしているとき、たまたま終了直前の『笑っていいとも』に小沢健二が出ているのを観た。16年ぶりのテレビ出演、とのこと。「私の昔の王子様がテレビに出てる」などとつぶやきつつ、彼が歌ったりする姿を、眩しいような気恥ずかしいような気持ちで眺めていた。
その少し前、わたしは古本を売るついでに、集めていた彼のシングルCDやアルバムをまとめて処分したばかりだった。高校生から20年近く聴き続けた彼の音楽は、おおげさではなくわたしの人生の一部だ。でも、その日テレビを観ながら、わたしは彼のかつての音楽をもう聴かないし、聴きたくなることもないだろうと思った。その時に、わたしの「人生」の古い部分と新しい部分をありありと見たのだ。
彼の音楽を聴かなくなったのがいつなのか、その正確な日付は分からないけれど、おおよその時期は分かる。その時期はたしかにわたしの人生の転機といえるようなひと区切りであり、わたしは今もその転機の余韻のなかにいるのだと思う。そして、人生の引っ越しが終わり、ルーティンが更新されつつある段階、あるいは、「新しい人生」が「わたしの人生」になりつつあるのが、いま、なのかもしれない。
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このブログのタイトルは、札幌で住んでいたマンションの前を流れていた、小さな川の名前からとったものです。引っ越しを機に変えてもいいのかもしれない、と思う一方で、わたしの「新しい人生」はあの川のほとりに住み始めた時に始まって今にいたる、とも思うので、このまま変えないでいようと思います。書く内容も、日記以上かつ論文以外のなにかをめざす、という意味では、いままでと変わりません。
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