新生活、という日本語をドイツ語で言えば“neues Leben”になり、英語なら“new life”になる。でも“Leben / life”には「生活」だけではなくて「人生」という意味もあるのだから、「新生活」は「新しい人生」でもある。
3月の終わりに、札幌から神奈川県に引っ越した。
大学入学を機に盛岡を離れてからというもの、わたしの生活の拠点は常に札幌にあり、就職や留学で違う街に住んでいた間にも、物理的・精神的なよりどころがあったのは、いつも札幌だった。
引っ越しまでのあれこれの片付けをしながら、札幌から離れることを自分がどんなふうに感じているのか、自分の気持ちのかたちを手探りしてみたりもしたけれど、そのたびすぐに手を引いてしまった。今はまだその時ではない、かたちにならないうごめくものに、まだ触れるべきではない。
その代わり、というわけではないけれど、わたしは「neues Leben」という言葉をときどきつぶやいていた。新しい生活、新しい人生。それはわたしにとって、不安よりはやや期待に近く、感傷や感慨よりもずっと実務的な響きを持つ言葉。
不要なものを処分し、引っ越しの荷物をまとめ、部屋を決め、いくつかの手続きをすませて、必要なものを買いそろえる、という引っ越しのプロセスを終え、日々のルーティンが更新される。「新生活」は、かぎ括弧のいらない、普通な毎日の生活になる。
「生活」とちがって、「人生」の変化や転機について、自分でその瞬間にそれと認めることは難しい。あれが転機だった、と後から振り返って言うことはあっても、今ここがその瞬間だ、とはっきり宣言することはあまりないし、宣言できたとしても、後からやっぱり何も変わっていなかった、と思うことも多い。
引っ越しの荷造りをしているとき、たまたま終了直前の『笑っていいとも』に小沢健二が出ているのを観た。16年ぶりのテレビ出演、とのこと。「私の昔の王子様がテレビに出てる」などとつぶやきつつ、彼が歌ったりする姿を、眩しいような気恥ずかしいような気持ちで眺めていた。
その少し前、わたしは古本を売るついでに、集めていた彼のシングルCDやアルバムをまとめて処分したばかりだった。高校生から20年近く聴き続けた彼の音楽は、おおげさではなくわたしの人生の一部だ。でも、その日テレビを観ながら、わたしは彼のかつての音楽をもう聴かないし、聴きたくなることもないだろうと思った。その時に、わたしの「人生」の古い部分と新しい部分をありありと見たのだ。
彼の音楽を聴かなくなったのがいつなのか、その正確な日付は分からないけれど、おおよその時期は分かる。その時期はたしかにわたしの人生の転機といえるようなひと区切りであり、わたしは今もその転機の余韻のなかにいるのだと思う。そして、人生の引っ越しが終わり、ルーティンが更新されつつある段階、あるいは、「新しい人生」が「わたしの人生」になりつつあるのが、いま、なのかもしれない。
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このブログのタイトルは、札幌で住んでいたマンションの前を流れていた、小さな川の名前からとったものです。引っ越しを機に変えてもいいのかもしれない、と思う一方で、わたしの「新しい人生」はあの川のほとりに住み始めた時に始まって今にいたる、とも思うので、このまま変えないでいようと思います。書く内容も、日記以上かつ論文以外のなにかをめざす、という意味では、いままでと変わりません。