2012/12/03

秋の日の名残り

11月が終わって、12月が始まるとともに、たくさん雪がふった。
ベランダから雪に覆われた街を眺めて、満たされる。あんしんかん。
札幌の冬は、白くてふわふわで、つめたくてもあったかい。

副業に時間と精神力を奪われて、ひさしぶりにキツイな、と思う毎日が続いた。
11月いっぱいでその仕事を辞めることにして、
もうすぐ終わりだ、と自分に言い聞かせながら、仕事をした。
病欠するひとが毎日数人いるような職場で、
それでも休まずに仕事に行ったのは、われながらエラかったな、と思う。

今は仕事が終わってホッとしていて、あまり思い出したくもないけれど、
もうちょっとしたら、ふりかえって少し考えてみるべきことがある気もする。
それは個人的な問題かもしれないし、もっと一般的な問題かもしれない。

身も心もくたびれてしまった、そういう時に、カズオ・イシグロの本を2冊読んだ。
名前もタイトルもよく目にしていたけれど、いままで縁が無かった。
しかし、このタイミングで読めたことは、むしろ幸運だった。
くたびれた私には恵みの雨のような、読書の時間。

明日はひさしぶりの東京。
会いたいともだちの顔が思い浮かぶけれど、ざんねんながら今回は一泊のみ。
ビールはまたこんどにしましょう。


11月のよく晴れた日曜日、
ひさしぶりにひとりで公園を散歩していたら・・・

このおじいさん、自分の杖を木に投げて(!)、
ぎんなんを落としていました。
投げてるところを写真に撮る勇気がなかったので、
なんか普通の写真になってますが・・・



2012/10/28

蜜をなめるように甘くはない


嵐の前ぶれのような不穏な空、吹き荒れる風に飛び散る雨。
お出かけはドーナツ屋さんとスーパーだけ、おとなしく過ごす日曜日にする。

平日に学費と生活費のための副業を始めた。
一日が20時間になったかと思うくらい、毎日があっという間に過ぎてゆく。
「忙しい」という言葉は好きじゃないし言いたくないけれど、つい口から出そうになる。

そんなある日、「心に残るファンタジー小説ベスト10」みたいな記事が目に入った。
そこに挙げられていた、気になっていたけれどまだ読んだことがなかった本を2冊、
さっそく図書館に予約した。


トムは真夜中の庭で

いまの私なら、時計が13回鳴っても、無視して眠り続けてしまうだろうから、
ふしぎな庭には、たどり着けそうもない。
いくつかの条件と想いがそろったときに、過去になったはずの時間があらわれる。
それは「タイムトラベル」というよりも、もっと日常的な色彩の物語。
愛すべきジャック・フィニィの『ふりだしに戻る』を思い出す。
不満を抱えた子供と隔てられた庭という設定は、『秘密の花園』を彷彿とさせる。
ラストシーンのトムとハティの姿は、第三者の視点で語られることで、ますます鮮やかになる。


クラバート

子供向けのお話、とあなどっていたわけではない。
でも読み始めたら、あらためて驚いてしまうくらい、面白い。
コンパクトな分量の中に物語がひしめいている。物語の凝縮されたエッセンス。
幼い私も夢中になっただろう、今もわたしを惹きつける、ある種の普遍的なトーン。
少年の成長物語、という点で、『デイヴィット・コパフィールド』にも通じるところがある。
あるいは、少年とカラスの組み合わせが、『海辺のカフカ』を連想させる。
ハッとするような文章がちりばめられているという点でも、似ているかもしれない。

「(逃げ出せって?)と、クラバートは考えた。(いったいなにから?仕事は、たしかに、蜜をなめるように甘くはない。[… ]しかし、食事はよくて、たっぷりあるし、家もちゃんとある。朝起きたときから夜寝る場所が確保されていることが、わかっているのだ。それも、暖かくて、かわいていて、かなりやわらかな、なんきん虫もしらみもいない寝床だ。こんなことは門付けをして歩いているころには、夢にも想像できなかったことではないか?)」 (プロイスラー『クラバート』、偕成社文庫、1985年、上36-37頁)

2012/09/23

向こうの世界の物語

先日のお伊勢参りのおかげなのか、ここさいきん読んだ本はどれもヒット。

E.A.アボット『Flatland』。(邦訳はブルーバックス版『二次元の世界』。
詳しい注釈版『フラットランド』は未読)。
タイトルだけは知っていたが、ふと思い立って読んでみたら、
なんとまあ、素敵に奇妙な、おとぎ話の味わい。
主人公は「正方形」で、舞台はフラットランド、つまり平面、二次元の世界。
その世界の住人たちは二等辺三角形や多角形や、円だったりするのだけれど、
女性はみんな直線で、そのありようがなんとも可笑しい。
(ただしこの「直線」的女性たちの描写には、当時から批判があったようで、
第二版への序文でいろいろと言い訳しているのも、また面白い。)
二次元に生きる主人公は、夢の中で一次元の世界-「線」の世界-を訪れ、
その世界の王である「点」に、二次元の世界を説明しようと試みるも信じてもらえず、
しかしその後、主人公が三次元の世界からの訪問者に出会うと、
その存在の仕方にすっかり混乱してしまう。
おもしろくて、やがて哀しい、そして哲学的な含蓄に富むストーリーだ。

工藤美代子『日々是怪談』。
ノンフィクション作家である著者が実際に体験した、不思議な話を集めたエッセイ集。
幽霊はいるかいないか、とか、信じるか信じないか、とか、
そういう議論は後回しで、ちょっと怖い、けれど感慨深くもあるような、
そして、読み終わってから、自分の身の回りがちょっと違って見えるような、
ちょっと他にはなかなか無いような種類の本である。

長野まゆみ『夏帽子』。
こちらはフィクションだけれど、主人公の紺野先生は、とてもリアルだ。
それは、私が生きる、現実の世界のリアルではなくて、
紺野先生が生きる、物語の世界のリアル。
そして、そのリアルを作り出す、その世界を描くために選ばれた言葉たちが、
リズミカルかつ端正な詩のようで、読んでいる目が喜ぶ。
しみじみと、日本語が読めて良かったなあと思う。

・・・

こうやって並べてみると、世界の境界を行き来するような物語、という点で、
上に挙げた3冊は共通しているような気がする。
あると信じる人、それを思い描くことができる人にだけ
見えるような世界や存在があるのではないかと、なんとなく思っている。
わたしにはどうもその種の信じる心や想像力が
じゅうぶんには備わっていないようなのだけれど、
それでも、そういう世界や存在を見る人の話を聞くのが、好きだ。
昨日、小樽の毛無山展望台にて。
レンタカーでひさびさのドライブ、
おいしいお寿司を食べて、温泉に入り、
夜はインドカレーという、スペシャルな休日でした。


2012/09/13

はじめてのお伊勢参り

はじめての伊勢。
学会があって行ってきたのだけど、わたしにとっては、学会<<<お伊勢参り、
というくらい、お伊勢参りメインの意気込み。
まずは学会初日、いちおう発表も終えてから、ひとりで外宮を参拝し、
翌日、東京から合流した友人と一緒に外宮と月夜見宮にお参りして、
その翌日は、学会のエクスカーションに参加、外宮から朝熊山を経由して内宮に、
というルートで、初お伊勢参りを果たしたのである。

素晴らしい天気に恵まれて、そのぶん暑かったけれど、
神宮の森に足を踏み入れると、ひんやりとかぐわしい風が吹き抜ける。
降りそそぐ木洩れ日とほんのり甘いヒノキの香り。
ありがたくなるほどに、心地よい。

社殿はシンプルかつ荘厳。
最初に外宮に参拝したときは、あまりにシンプルで、
どこで「二拝二拍手一拝」すればよいのかわからなかったほど。
素朴で力強さを感じる建築様式に、自然とおごそかな気持ちが湧いてくる。

思いがけずよかったのが、外宮に隣接する「せんぐう館」。
「せんぐうシアター」の番組「神嘗祭篇」を見て、
なるほど、神道というのは「食」をめぐる営みを中心とする宗教なのだなあ、
と思ったりする。

神棚も仏壇もない家で育ったので、
神社にしろお寺にしろ、そこに足を踏み入れた時、
どうしても「わたしはよそ者」と思ってしまう。
それでも、よそ者なりに、また戻ってきたいなと思う場所がある。
伊勢にも、また来れたらいいなと思う。







2012/08/24

鴨々のほとりにて


そんなこんなで、札幌に帰ってきたのである。

新居での生活も3か月がすぎ、身も心もじゅうぶん落ち着いた。
そこで満を持して新しいパソコンを注文し、届いたのが10日ほど前のこと。
いろいろ新しいパソコンに移動して、ついでにブログも刷新しようかなと思ったのだ。

タイトルは、新居の前を流れる小さな川にちなんで。


公園もすすきのも、ほとんど庭のように近くて、日々のお散歩コースには困らない。
そういえば「お散歩」が自覚的に好きになったのは、ドイツに留学してからだと思う。
お散歩は、いまでは暮らしのなかの大切な一部になっている。
考えるために歩いたり、となりにいる人と話すために歩いたり、それはおそらく、ドイツ的「Frische Luft(フリッシェ・ルフト=新鮮な空気)」信仰に由来する、ほとんど儀式的なふるまいなのだ。

ちなみに「Frische Luft」信仰とは、「新鮮な空気の摂取は身体(とくに頭脳の)機能の維持および向上に資する」との信念に基づき、頻繁な換気を主要な儀礼とする、ドイツ語圏に広く見られる信仰である。
・・・と、私が定義するところのもの。

そんなことはさておいても、お散歩はたのしい。