2025/06/20

Deus caritas est

自分が回心したり悟ったりすることが、ずっと恐かった。
回心とか悟るとか、他人事なら面白いけど、自分に起こったら、困るしイヤだ。
だって、あっちに行っちゃったら、こっちに戻ってこれなくなりそう。
そう思っていた。

でも、回心したり悟ったりしても、あっちに行きっぱなしになるんじゃなくて、こっちに戻ってくることもできるし、あっちに行ったりこっちに戻ったり、さらには、あっちでもこっちでもないどこかに行ったり、もっと言えば、あちらこちらどこにだろうと、自在に行き来することもできるはず。

そんなふうに私の回心・悟り観が変わったきっかけは、ふたつある。

最初のきっかけは、ドイツ留学中のフィールドワーク授業だった。
学生が自らテーマを設定して実際にインタビューを行うという授業で、私たちのグループは「なぜ現代の女性が修道女になるのか?」をテーマに選んだ。
私は夏休みに帰国したタイミングで、近郊の修道院で働くドイツ人シスターに連絡を取り、ドイツ語でインタビューを実施した。

唐突な依頼にもかかわらず、シスターはとても丁寧に応じてくれた。
インタビューの前は私も(たぶん彼女も)緊張していたけれど、話し始めると一気にうちとけた記憶がある。

パソコンの奥に眠っていた当時の記録によると、インタビューは2時間12分に及び、「インタビューに応じた女性は、とても熱心に、エネルギッシュに、そして流暢に話した。彼女は私から目を離さなかった。インタビューは、最初は少し緊張していたが、和やかな雰囲気で行われた」(DeepL訳)。

私を見つめるシスターの大きな目、それはたしかに印象に残っている。
「インタビューの後、彼女はお茶と手作りのケーキを差し出し、日本語で話し始めた」ことはすっかり忘れていたけど、「暑い日で日差しが強かったが、彼女は気にしなかった。対談が終わってから気がつき、カーテンを引いた」とのくだりでふいに情景がよみがえる。
そうそう、あの部屋でシスターの向かい側に座っていた私には、逆光がやたらに眩しかったのだ。

「なぜ現代の女性が修道女になるのか?」の問い(リサーチクエスチョン)に対する答えは、報告レポートの末尾に一文でまとめられていた。

修道院に入るという決断は、社会人としての生活と信仰生活を一体化させるために、徐々に、そして逸脱することなく行われる。

修道女になる決断が、劇的な回心によるのではなく日常の中で「徐々に」なされるものだという結論は、私のグループ全体の結論でもあり、その後も折りに触れて思い出したり、人に語ったりしてきた。
(インタビューから20年を経た今の私には、結論の前半にある「社会人としての生活と信仰生活を一体化させるために」というフレーズも同じくらい重みがある。)

回心・悟りに対する考えが変わったもう一つのきっかけは、トルストイの『アンナ・カレーニナ』だ。
10年前の秋から冬にかけて、離婚直後のしんどい時期に、私は、この長い物語を生きるアンナとリョーヴィンの姿に自分を重ねていた。

『アンナ・カレーニナ』読了後、当時のブログにこんな感想を書いた。

長い物語だったけれど、アンナさんとリョーヴィン君のそれぞれに痛いキャラクターにやきもきしたり、時代の雰囲気やまわりの登場人物たちにつられて、もちろん翻訳の読みやすさにも助けられて、どんどん読み進められた。
メロドラマ風な場面ではなんか大げさだしいちいち大変そうと思ったり、政治的な場面ではリョーヴィン君に負けず劣らず退屈したりもした。
でも、テンポある場面転換に救われつつ先へとむかえば、アンナさんの自問自答が病的かつ悲劇的なスパイラルで猛進する一方で、リョーヴィン君の愚直なまでの問いは悟りへ、しかもごく地に足のついた悟りへと収斂していく、そのコントラストがあまりに鮮烈なクライマックス。

タイトルだけは知っていたけれど、物語の筋はほとんど知らず、文庫本の裏表紙の短い解説も読まずにいたぶん(とくに第4 巻の裏表紙は読まなくて正解)、物語はまさにわたしの目の前で繰り広げられ、悲劇も悟りもありありと体験することができた。
悲劇には悲劇なりの、悟りには悟りなりの理由があって、アンナさんとリョーヴィン君それぞれの思想と行動の結果として描かれている、とわたしは思った。
なぜこのふたりが並べて物語られるのかが、最後まで読んでわかったような気がする。

ここに記したリョーヴィンの「地に足のついた悟り」に、たぶん私は憧れを感じていたのだろう。
そんな悟り、そんな回心が、私にも起こればいいなと、はっきりと言語化してはいなかったかもしれないけれど、でも、そういう悟り・回心ならば良きものだ、と思うようになったのは確かだ。

同じ頃の日記に、私はこんなことを書いている。

夜8時20分。カゼがたぶん治りかけだと信じて、ビールを2本、それから甘いパンとケーキにワイン、(…)BBCの数学者の特番をみながら。

カントール、ボルツマン、ゲーデルとチューリング。数学者たちが命を燃やして得ようとした真理と、それを言葉にして伝えることの、とてつもない断絶をおもう。言葉にしなければ伝わらないのだけれど、言葉にできることを超えた何かが彼らを人間の世界から追いやった、としか思えない。確実性、それにたどり着けないということ、その事実を受け入れられないという思い。彼らにはあり、それはもしかしたら私たちの時代の特徴であり、そしてひょっとすると、どの時代にも存在していたのかもしれない、その図式。

今日のアルコールは、なげやりな気分からではなく、そろそろ回復へのジャンプができるような気がして、そのジャンプへのエネルギーを補給するため。私自身の地殻変動を受け入れる、そのために。

誰も答えを与えてはくれない。どんな定式も真理も答えではない。それはヒントであり手掛かりであり、それ以上ではない。どんな定式や真理も、そこに言葉が、文脈と意味と意義が、与えられなければ、命を持たない。文脈と意味と意義を与えるのはそのつどの自分であり、そこで与えられるのは「私」の命に他ならない。

シスター、アンナとリョーヴィン、数学者たち、そして彼らに出会ってきた私。
まるで点と点がつながって、今ここに至る道が見えるようだ。
自分の予言が実現する、いわゆる「予言の自己成就」あるいは「引き寄せの法則」、いや、もっとシンプルに「求めよ、さらば与えられん」。
私はそれを身をもって知ったのかもしれない。


amoreの片割れ




気がつけば愛はいつもそばにあり白いマグには歌うamore


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